Kyoto tsu

京都通

  • 2008/10/25

第97回 金戒光明寺『愛ゆえに激しく闘った、女ごころの終焉の地』

紅葉の季節、紫雲の庭と山門におこしやす

黒谷(くろだに)さんと呼ばれ親しまれている「金戒光明寺」は、浄土宗の大本山として、法然上人が1175年、比叡山の黒谷を下り、お念仏を広めるために創建しました。
西山連峰、黒谷の西2キロの京都御所、西10キロの小倉山を臨み、山門、阿弥陀堂、本堂など18もの塔頭寺院が建ち並び、敷地面積もビッグスケールの寺院です。
「お念仏発祥の地」、「聖護院大根発祥の地」「新選組発祥の地」であると聞くだけで、歴史的にも底知れぬ奥の深さ、計り知れぬ大きさを感ぜずにはおれません。

見どころが非常に多く点在し、絵のようなロケーションにも関わらず、人が少なく観光には穴場です。
そのため映画やテレビ番組の撮影の舞台にもよく使われているようです。

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有名女優が、時代物映画の撮影で玉砂利の上を歩いたばかりの「紫雲の庭」。
このお庭は、平成23年に法然上人800年大遠忌記念として大方丈東庭園の西側に約200坪を新たに整備したものです。
法然上人のご生涯をあらわす大小の石を辿りながら美しい庭園鑑賞が楽しめます。
お庭内には熊谷直実が鎧を洗ったことで有名な池もあります。

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またこちらの「山門」も、映画やテレビの時代劇でよく登場します。
ある推理ドラマではこちらの「山門」が番組の最後の方で映し出されたら、お決まりの事件解決となります。
この他にも、多くの俳優、女優が寺の敷地内のさまざまな場所で名演技を繰り広げてきたそうです。

「紫雲の庭」と「山門」は、春と秋に特別公開があります。紫雲の庭では、拝観者も玉砂利の上を歩き、お庭散策を楽しめます。
山門は、内階段から上の階に上がって内部拝観と、京都市内が大パノラマで臨めます。
山門の上階からは金戒光明寺が高台にあることがよくわかります。
「庭園の紅葉」と「山の紅葉」の2つとも楽しめます。

さらに特筆すべきこととして、洛中(京都市内)に対し洛外にある金戒光明寺には、京都守護職(幕末新たにもうけられた江戸幕府の要職)の本陣が置かれ、京の都に敵が攻めてきたときの軍事的な要所にもなっていました。
お寺ではあるものの、その造りが「城構え」になっているのはそのためです。

二人の女はお世継ぎ問題で争ったんえ

愛ゆえに闘い、憎み、傷つき、喜び、涙した女同士の確執、その終着点がこの地に見られます。
大奥で知られる春日の局が建てたと言われる高さ4メートルはある巨大な「お江与の供養塔」です。
お江与は徳川2代将軍秀忠の正室。供養塔の中には遺髪が納められています。

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お江与の方は小督・お江ともいい、天正元年(定かでない)浅井長政と織田信長の妹お市の方の間に生まれました。
姉は茶々(淀殿)・お初(京極高次の正室)です。
お江与は1歳で近江小谷城の落城と父長政を亡くし、天正11年、10歳の時、北ノ庄落城で母お市を亡くします。

お江与は姉たちとともに秀吉に引き取られ秀吉に庇護されて成長します。
(余談ですが、母のお市は類稀な美女で、生前、再三秀吉の求愛を受けこれを拒絶していました。後に秀吉は淀殿を正室にしますが、淀殿が母のお市に瓜二つだったためと伝えられています)

その秀吉の策略によりお江与は天正14年、14歳で尾張大野城主佐治一成のもとへと嫁ぐのです。
その後、秀吉により仲を引き裂かれ今度は羽柴秀勝の妻となります。
しかし秀勝は朝鮮出兵のおりに戦死し、19歳で未亡人となってしまうのです。

秀勝との間に生まれた一人娘の完子は姉の淀殿へ引き渡し、文禄4年、22歳で秀吉の命により今度は伏見城から徳川二代将軍秀忠の正室として江戸城へ赴きます。
幼少から激動の半生を過ごし、ようやく将軍の正室という栄光の座につくことができたのです。
が、しかし。

秀忠の正室となり、2男5女を産みました。
この中でもお江与が溺愛したのが次男の忠長でした。
長男の家光は、乳母の春日の局に育てられ、容姿もさえず言葉も流暢でなく母に反抗的でした。
忠長はお江与が自ら育て、色白の美男子で明るい性格。信長や母お市の方に瓜二つであったと言います。
お江与は忠長を溺愛し、家光を廃嫡にして忠長に将軍家を継がそうとしたのです。

勝利の覇者の切なさを感じておくれやす

春日の局は本名を福といい、明智光秀の重臣斉藤利三の娘で、母は稲葉通明の娘おあんです。
父利三は光秀に加担して本能寺の織田信長を襲ったため、後に捕らえられ斬首となりました。
信長と家康は同盟を結んでいたため、福は逆臣の娘として世間の冷たい風にさらされ育ったのです。

それでも母方の縁で稲葉重通の養女となり、その後重通の養子正成の後妻として、それなりの幸せを得ました。
ところが福の器量を見込んだ家康が、離婚までさせて京都から江戸に呼び寄せ、秀忠の長男竹千代(後の家光)の乳母に任命するのです。
ここで、逆臣の子と言われ続けたお福は、春日の局として乳母という要職に自分の生きる道を見出します。

一方お江与は、周りや、夫の秀忠も巻き込んだ不穏な動きを進めていました。
「このままでは、家光の将軍の椅子が危ない!」
春日の局はお伊勢参りの名目で江戸を出て、駿府城にいる家康に直訴。
これを聞き、家康が「将軍の後継者は家光である」と明らかにしました。
大御所様の言うことなら、これにて将軍は家光に決まり。
春日の局は念願通り家光を将軍にすることができ、勝利の栄冠を勝ち取るのです。

その後忠長は、家康が亡くなった際に静岡の50万石をもらいましたがこれを不服とし、自暴自棄となり25歳で自害します。
後継問題で破れ落胆のうちにお江与も亡くなり、相手方はあまりにも寂しく死んでいきました。

春日の局は勝者となったものの心が痛んだのでしょう。
お江与の供養塔は春日の局が追善のために建立したのです。
そしてまた、忠長の供養塔も春日の局がここに建てました。

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因みにお江与の供養塔にいくまでに蓮池があり、春日の局が寄進したと言われる木橋(極楽橋)が架けられましたが、現在は石橋になっています。
そこから西に続く門前の通りを春日の局がよく通ったため春日通りと呼ばれています。
春日の局がこの地にお江与の供養塔を建てた理由の一つに隣の真如堂に父利三の墓があり、逆臣であった父の墓参りを公にできなかったため、お江与を参る折に、そっと父の墓参りをしたのではないかと考えられています。

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なお、春日の局の供養塔もお江与の供養塔のすぐそばにひっそりと建てられています。
誰が建てたものかは記録にありません。

秋の山門・庭園 特別公開 : 2008年10月31日(金)~11月30日(日)9時~16時
吉備真備杯 囲碁大会 : 2008年11月3日(月・祝)は事前申し込みが必要です。

取材協力 : 金戒光明寺
〒606-8331 京都市左京区黒谷町121
電話番号 : (075)771-2204

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