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  • 2018/10/20

第339回 島津製作所 創業記念資料館『日本の科学技術を支えた技術者親子の功績を知る』

初代源蔵はんは理科教育に尽力しはったんどす

明治8年(1875年)に京都で創業して以来、私たちの暮らしを支える様々な医療機器や理化学器械を製造・販売し、日本の近代科学技術の発展に大きく貢献してきた「島津製作所」。
平成14年(2002年)には同社の田中耕一氏がノーベル化学賞を受賞し、日本の企業に属する研究者では初の受賞者ということで大きな話題となりました。

そんなグローバル企業「島津製作所」の歩みを分かりやすく紹介しているのが、昭和50年(1975年)に創業100年を記念して設立された「島津製作所 創業記念資料館」です。
平成23年(2011年)にリニューアルされ、5つからなる展示室では創業以来製造してきた理化学器械や関連資料などをじっくりとご覧いただけます。

創業の地である木屋町二条に立つこの資料館は木造2階建ての町家形式でありながら、洋風窓やステンドグラスが使われるなど和洋折衷の装いとなっています。
明治前期の町家が洋風化されていく様が見て取れる重要な建築物として、平成11年(1999年)には国の「登録有形文化財」に認定されました。
大正8年(1919年)まで本店として使われると同時に、創業者の初代島津源蔵やその家族の住居にもなっており、居室もご覧いただくことができます。

仏具職人の家に生まれた源蔵は21歳で独立し、仏具製造の店を開きました。
しかし、その8年後、歴史的大事件が起こります。それが明治維新であり、東京遷都でした。

人口は減少し、京都の町は一気に寂れてしまい、さらには廃仏毀釈の影響で仏具への注文は激減します。
そんな中、京都の人々は西洋の最新技術を導入し、産業の近代化によって京都の復興を目指そうと、高瀬舟の終着点としてにぎわっていた木屋町二条周辺に多くの産業施設を設立しました。

源蔵は店のすぐ近くに出来た科学技術の研究機関「舎密局(せいみきょく)」に足繁く通い、初めて触れる西洋の理化学器械に魅了されていきます。
科学の最新知識と技術を習得した源蔵に、やがて外国製器械の修理や整備の仕事が舞い込むようになりました。
「自分で理化器械を作ろう。そして日本を科学の国にしよう」。
そう決意した源蔵は30代半ばで仏具製造業から転職し、教育用理化学器械を製造する「島津製作所」を創業したのです。

明治15年(1882年)に発行された「理化器械目録表」が残っていますが、これは理科の時間に使う実験器具のカタログで、創業からわずか7年で約110種類もの製品が載っていることに驚かされます。
さらには、それぞれ3段階の価格から製品が選べるようになっており、財政的に厳しい学校にも広く使ってもらえるよう、材質などを変えて作り分けされていました。

そして最後のページに書かれているのが「御好次第何品ニテモ製造仕候也(注文があれば どんなものでも お作りします)」という文言。
この一冊のカタログから、源蔵の科学への情熱とモノづくりの姿勢が伝わってきます。

また、好奇心とチャレンジ精神に満ちあふれた源蔵は、京都府の要請を受け、それまで見たこともない軽気球をたった一枚の絵図から作り上げ、明治10年(1877年)12月6日、「日本初の有人軽気球」の飛揚を成功させました。

そのビッグイベントを一目みようと京都御所には4万8千人の大観衆が押し寄せ、日本で初めて人を乗せた気球は地上36メートルの高さまで揚がったのです。
資料館ではそのときの様子を描いた「軽気球飛揚図」が展示されています。

二代目源蔵はんは科学技術で社会に貢献しはったんや

初代源蔵のもとで育った長男・梅治郎もまた、理化学器械に強い関心を示し、父親譲りの才能を発揮しました。
家業の手伝いが忙しく、学校には1年半しか通えませんでしたが、父からフランスの物理書を与えられた梅次郎は、フランス語は理解できなくとも、挿絵と図解だけを頼りに器械を作り、その内容を理解していったのです。

そんな中、わずか15歳にして「感応起電機」を完成させ、周囲を驚かせました。
これは高電圧を発生させる装置で、この起電機は「島津の電気」と呼ばれ、理科の実験用具として教育の場で長く使われました。
明治27年(1894年)に本店が完成した矢先、初代源蔵が病で亡くなり、梅次郎は26歳にして二代目源蔵として島津製作所を受け継ぎます。

そして、ドイツ人物理学者レントゲン博士が「X線」を発見してからわずか11カ月後の明治29年(1896年)、二代目源蔵もまた自身が改良した発電機を使って、X線の撮影に成功します。
明治30年(1897年)には早くも教育用X線装置を完成させ、明治42年(1909年)には国産初の医療用X線装置を世に送り出しました。

資料館の一階のエントランスには大きな装置が展示されています。
これは改良を重ね、大正7年(1918年)頃に製造された「ダイアナ号」というX線装置で、より軽量でコンパクトになり、全国の病院に幅広く採用されました。
ちなみに、ダイアナという名前はギリシャローマ神話の女神から名付けられたもので西洋への憧れを感じますが、昭和になってからは桂や嵯峨など京都の地名も付けられるようになりました。

二代目源蔵は常々、「学理を教えられたら、その応用を考えなくてはならない」と語っていました。
例えば、その言葉を象徴するエピソードも残っています。
明治の終わり頃、現在の京都府亀岡市にあった貯水池の排水溝が詰まり、池の水が外に流れなくなってしまいました。
そこで、修理を依頼された二代目源蔵は、即座に学校で習うサイフォンの原理を応用した新たな排水装置を考え出し、貯水池を元の姿に戻したのです。
「科学技術で社会に貢献する」という二代目源蔵の信念は、島津製作所の重要な社是として今に受け継がれています。

暮らしの中にある科学の面白さに触れておくれやす

数々の発明を認められ、昭和5年(1939年)日本の十大発明家の1人に選ばれた二代目源蔵。
亡くなるまで発明を続け、82年の生涯で178件の特許を取得しています。
中でも力を注いだのが繰り返し何度でも使える蓄電池(バッテリー)の開発でした。
明治の中頃になると、機械は手動から電動の時代に移り、蓄電池の需要は伸びる一方、発電設備は輸入ものに頼っていました。

そこで、二代目源蔵は外国製を参考に蓄電池の製造を開始し、明治30年(1897年)、容量10アンペア程度の高性能の蓄電池を完成させました。
これが日本における蓄電池の工業的生産の始まりです。

明治41年(1908年)にはGSブランドを立ち上げ、大正6年(1917年)日本電池株式会社を設立しました。
「GS」といえば、自動車のバッテリーを思い浮かべる方も多いと思いますが、現在も「ジーエス・ユアサバッテリー」としてその名を残す「GS」とは、実は島津源蔵のイニシャルから付けられたものなのです。

また、京都は知る人ぞ知るマネキン発祥の地で、その源流となる「島津マネキン」は、全盛期の昭和12年(1937年)、全国生産の85%以上を占める独占企業でした。
明治28年(1895年)には島津製作所に標本部を新設。
最初は植物模型や鉱石標本からスタートし、最終的には138ものパーツに分解できる紙製の人体模型を発表しました。
長年培った人体の製造知識は後のマネキン事業につながり、標本部は現在人体模型のトップメーカーである株式会社京都科学へと受け継がれています。
二代目源蔵はこれからの社会を見据えた優れた経営者でもありました。

現在、島津製作所では乳がん検診に使う医療機器や残留農薬、汚染物質などを測定する装置、航空機用のエアコンといった航空機器を製造するなど、日常生活で頻繁に目にすることはなくとも、確かな技術で私たちの生活を支えてくれています。

資料館ではこのほか、国産木製複式顕微鏡や避雷針の仕組みを理解する器具、真空実験するための器具、蚕のオスとメスを判別する器械、大正2年(1913年)製の扇風機など、大変興味深く、かつ見た目にもこだわったデザイン性の高い品々が多数展示されています。

また、映画の仕組みが分かる「ストロボスコープ」や昔の3D立体メガネ「実体鏡」など、実際に手に取って楽しめる「実験ラボコーナー」もあります。
小学生以下のお子さんが楽しみながら科学に興味をもってもらえるよう、記念品付きのワークシートも用意されています。

ちなみに大人に人気があるのが、二代目源蔵が著した処世訓「事業の邪魔になる人」です。
そこには「金銭でなければ動かぬ人」「仕事を明日に延ばす人」など15の項目があり、ドキッとする言葉も含まれています。
「家庭を滅ぼす人」も続いており、特に女性は「不用な物を買いたがり無駄事に多くの時間をつぶす人」という項目にちょっぴり耳が痛くなるかもしれません。

子供から大人まで幅広い世代が一緒になって楽しめる「島津製作所 創業記念資料館」。
独創的な展示品を目の前にしながら、失敗を恐れないチャレンジ精神、そして科学の奥深さに触れてみてはいかがでしょうか?

※年3回、無料公開あり。2018年は「関西文化の日」として、11月17日(土)・18日(日)の2日間実施されます。

取材協力 : 島津製作所 創業記念資料館
〒604-0921 京都市中京区木屋町二条南
電話番号 : (075)255-0980
FAX番号 : (075)255-0985

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