Kyoto tsu

京都通

  • 2010/5/1

第176回 本能寺『織田信長が最期を遂げた、京都の歴史的大舞台』

本能寺は幾度も火に悩まされたお寺なんどす

天下統一も目前だった戦国武将・織田信長が、最も信頼していた重臣・明智光秀に襲撃され、火を放って自害したという『本能寺の変』。
本能寺と聞けば、この歴史上名高い大事件が真っ先に思い浮かぶのではないでしょうか。

tuu_176_001

京都市役所の南側、寺町通沿いという繁華街の中にあるせいか、偶然通りかかった多くの方は、「ここがあの本能寺ですか?」と半ば信じられない様子でお尋ねになるそう。
もちろん、"あの本能寺"で間違いはないのですが、本能寺の変が起こった舞台は今の場所ではなく、こちらに移転する前の四条西洞院付近にあったときのこと。
天明の大火や蛤御門の変などによって5度の焼失、そして7度の建立に際し、その都度、移転を繰り返してきました。
今の地に移ったのは、本能寺の変のあと、豊臣秀吉の命が下ってのことでした。
お寺自体、建て直しのたびに防災面でかなりの強化がなされてきました。

信長が京都を訪れる際、本能寺を常宿にしていたのは、御所が近かったといった利便性だけでなく、優れた警備を誇る、まるで城塞のような構造を高く評価してのことだったのです。
ただ、信長は自らの最期、そのお寺に火を放って自害するのですから、なにか皮肉めいたものも感じますね。
このとき、信長は49歳。天下統一の夢は、炎とともに無残にも消え去ってしまったのです。

また、これほどの火の災難に遭えば、なんとかお寺を火から守りたいという気持ちが当然強まるもの。
そのためか、本能寺の"能"という漢字が変えられたと伝えられています。
"能"の漢字の右部分にヒ(火)が入っているのは縁起が悪いからと、火が去る意味を込めて"去"のようなつくりになったのですね(写真参照)。
(※システムの仕様で表示できない文字のため、本文中では「能」の字を使用しています。)
当初は昭和3年に改名したといわれてきましたが、移転前の跡地から出土した焼け瓦には、改名後の漢字が刻まれていました。
つまり、本能寺の変のころにはすでに改名されていたことになり、いつ改名されたのか、その真相は再び謎に包まれてしまいました。

信長の死には、ぎょうさん不思議な謎が

さて、本能寺にゆかりの深い織田信長ですが、いったいどういう人物だったのでしょうか。
戦国時代、尾張国を統一した信長は桶狭間の戦いや姉川の合戦などで敵対勢力を次々と倒し、天下人の道を歩んでいきます。
上洛した後は、比叡山延暦寺を焼き討ち、そして将軍足利義昭を京都から追放し、室町幕府を滅亡させました。
その一方で、貿易の奨励や楽市楽座、検地、キリスト教の保護など、経済政策や宗教政策にも着手しており、その知性と決断力はやはり人並み外れたものがありました。

tuu_176_002

信長の性格を表すのに、
「なかぬなら 殺してしまへ ほととぎす」
という歌がありますが、これは信長本人が作ったものではなく、ある随筆に収録された歌を引用したもの。
このように冷徹なイメージが付いていますが、囲碁や舞など多彩な趣味を持つ芸術肌で、意外にも酒は飲まなかったといいます。

その代わり、茶の世界をこよなく愛し、本能寺の変が起こった前日にもお茶会を催していました。
そのお茶会には公家や豪商などを客人に招き、秘蔵の名物茶器を得意げに披露したそう。
その後、開催された晩さん会では、本因坊日海上人(寂光院)と鹿塩利賢(本能寺)の囲碁の御前試合を見物。
実はその対局中、「劫(こう)」が3ツもできる「三劫」といった珍しい手になり、勝負をつけることができなかったといいます。
それはそれは不思議な出来事だったと伝えられています。

ちなみに、信長の遺体は見つかっておらず、一説には本能寺に備蓄されていた大量の火薬によって体が爆散した、あるいは地下に作られた逃げ道から脱出し、生き延びていたのではなどと諸説語られ、信長の最期は今なお謎に包まれています。
本堂の裏には信長の供養塔が建てられていますが、そこには遺骨の代わりに、信長の太刀が納められていると言われています。
織田一族や身の回りの世話をしていた小姓・森蘭丸らの供養塔もありますので、手を合わせるときには、ぜひそんな歴史の一端に思いを馳せてみてはいかがでしょうか。

6月2日は信長公を偲んでおくれやす

本能寺の変の前日には、さらに不思議なことがあったと伝えられています。
信長の所有物だったカエルの香炉が突然鳴いたのです。
信長に危険を知らせようと、「ニゲロ、ニゲロ」とでも鳴いたのでしょうか。
これこそ虫の知らせならぬ、蛙の知らせですね。

tuu_176_003

そして、宝物館で開催中の『本能寺と信長展』では、そのときの香炉「三つ足の蛙」をはじめ、信長が所持していた茶器や刀、家臣が身に着けていた甲冑など、時代を物語る多くの宝物が展示されています。
「茄子茶入唐物」には、本能寺の変で焼け、変色した跡が見受けられます。
幾度の火災にあったものの、焼跡から宝物を持ち出したお坊さんの功績によって、今なお本能寺ゆかりの名品が数多く残されているのですね。

また、宝物館に入るとすぐ目にとび込んでくる大きな鬼瓦。
これは、現在修復中の本殿の鬼瓦から降ろされたものです。
なかなか身近に見ることのできない代物だけに、その大きさや迫力には圧倒されるものを感じます。

tuu_176_004

本能寺の変が起こり、信長が没したとされる6月2日には、毎年、法要が行われていて、こちらは一般の方も見学、お焼香をすることが可能です。
中には、織田家の親せき筋の方々も来られるのだとか。
本来ならば、「信長まつり」も同時に行われるのですが、現在は本堂の改修工事が行われているため、休止中とのこと。
メインとなる武者パレードでは、市民らが信長をはじめ豊臣秀吉、徳川家康、明智光秀など戦国武将らの衣装に身を包み、街中を練り歩くといいますから、復活すればぜひ拝見してみたいものですね。

さらに、お寺の敷地内では華道や茶道、日本画、書道などの文化教室も開催されています。
多彩な趣味を持っていた信長ゆかりのお寺で、習い事ができるなんてなんだか気持ちが引き締まる思いです。
参拝される方も、最近は特に若い女性が増えてきているそうです。
歴史に関心のある女性"歴女"にとっては、やはり本能寺は外せないスポットなのでしょうね。

取材協力 : 本能寺
〒604-8091 京都市中京区寺町通御池下ル下本能寺前町522
電話番号 : (075)231-5335

Translate »