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京都通

  • 2010/6/12

第182回 大本山 蘆山寺『源氏物語のふるさとで桔梗の花を愛でる』

この地に紫式部がいはったんどす

河原町通りから寺町通りへと向かう道へ入ると、「紫式部邸宅址 「源氏物語」執筆地 廬山寺」の看板が目をひきます。
源氏物語の生まれた場所は、京都御所にほど近い、緑豊かな地にあります。
交通量の多い河原町通りからほんのひと筋入っただけなのに、意外なほど静けさを感じます。
木々の緑に囲まれ、都会のオアシスのような立地条件です。

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手前の門をくぐると、正面には紫式部の歌碑が来訪者をお出迎え。

めぐりあひて 見しやそれとも わかぬ間に 雲がくれにし 夜半の月かな(紫式部)
これは紫式部が幼友達に贈った歌で、「その形を見たのかどうかわからぬうちに、雲の中に隠れてしまった夜中の月のように、久しぶりにお目にかかり、お姿を見たかどうかわからぬうちに、あなたはお帰りになったのですね」といった意味です。

有馬山 猪名の笹原 風吹けば いでそよ人を 忘れやはする(大弐三位)
こちらは、紫式部の一人娘、藤原賢子(ふじわらのけんし/父は藤原宣孝)が詠んだ歌。
不実な男性への返歌として「それですよ。どうして私が忘れようか。薄情になったのはあなたですよ」という意味です。

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この2つの句が、句碑に刻まれています。
その手前には、使い古した筆を供養する筆塚が。
世界最古の文学の発祥地に足を踏み入れたのだと、感じさせてくれます。

「源氏物語」もここで書かれたんどす

紫式部の邸宅址といっても、残念ながら、当時の建物が残っている訳ではありません。
廬山寺は、豊臣秀吉が寺町を建設した際、この地に移ってきました。
それが天正年間、1500年代の後半のことです。紫式部の時代より500年くらい後のことになります。
その時にはたぶん、もう紫式部が住んだ堤第(つつみてい)は、無くなっていたことでしょう。

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紫式部の邸宅は、堤第として知られています。
堤第の所以は、紫式部の曾祖父・藤原兼輔(ふじわらのかねすけ)が鴨川の堤に邸宅を作ったことから名付けられたといいます。
この屋敷を紫式部の父・為時(ためとき)が受け継ぎ、紫式部は亡くなるまで住んでいました。

藤原宣孝(ふじわらののぶたか)と結婚した際にも輿入れはせず、源氏物語でもよく出てくるような通い婚のスタイルだったそうです。
終生、堤第を離れなかった紫式部は、「源氏物語」や「紫式部日記」「紫式部集」などの執筆も当然、この地で行っていました。

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境内に入っていくと、そこにはゆっくりと落ち着いた時間が流れ、美しい枯山水のお庭が出迎えてくれます。
まわりには源氏物語の貝あわせや絵巻物など、紫式部を偲ぶ数々の品が展示してあり、源氏物語がここで生まれたのだと感じさせてくれます。
紫式部もきっと、お庭を眺め、木々のざわめきや鳥の声を聞き、思索にふけり、源氏物語を書いていたことでしょう。

源氏の庭は桔梗が美しいどすえ

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もともと、紫式部の邸宅が堤第であることは知られていました。
しかし、その位置が正確にどこであったかは、わかっていませんでした。
その問いに答えを出したのが、考古学者の角田文衛(つのだぶんえい)博士です。
博士の功績により、昭和40年、廬山寺が紫式部の邸宅址であると学術的に証明されました。
そしてそれを記念して、枯山水の源氏庭が造られたそうです。

平安朝のおおらかな雰囲気を再現し、少しでも紫式部の時代感を味わってもらえるように配慮されています。
庭は、雲の流れを苔の配置によって表現しています。
平安時代の衣装や屏風などでよく用いられていた文様をモチーフにしているそうです。
そして苔が配置されているところに、たくさんの桔梗が植えられているのです。

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例年、6月12日頃に1輪目が咲き始め、次々と花を咲かせ、9月の中頃まで楽しめます。
最も花が多くて見頃を迎えるのが、ちょうど祇園祭のある7月中旬の頃だといいます。
さすがに、祇園祭の頃は廬山寺にも多くの観光客が訪れます。
桔梗のお庭を眺めながら、源氏物語の世界に思いをはせるには、混雑するお祭りの時期は避けた方がいいでしょう。

心身をリラックスさせ、ゆっくりと流れる時間に身を任せ、いにしえの平安朝を偲びつつ、紫の花に見ほれる。
紫式部の邸宅址で、源氏物語の世界を少しでも体感できれば、有意義な時間が楽しめることでしょう。

取材協力 : 大本山 廬山寺
〒602-0852 京都市上京区寺町広小路上る
電話番号 : (075)231-0355

第354回 廬山寺『桔梗が咲く時期に授与される紫式部の特別御朱印』

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