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  • 2018/4/21

第333回 岩倉具視幽棲旧宅『激動の時代を動かした元勲・岩倉具視の隠れ家』

岩倉具視の元にはあの志士たちが訪れていたんどす

幕末に活躍した京都出身の公家で、明治維新後、政治家として重要な役割を果たした岩倉具視(いわくらともみ)。
岩倉具視といえば、500円札の肖像画となっていたことで、ご存じの方もいらっしゃるでしょう。

ちなみに、現代の日本においても多大な功績を残しており、「日本鉄道」によって造られた線路や駅は今のJR東日本に引き継がれています。

さらに、京都の三大祭に数えられる葵祭を13年ぶりに復活させたほか、京都御所や二条城を整備して一般公開することや、御所に迎賓館を作って外国人を迎えることを提案しました。
明治維新で東京に都が移され、すっかり気落ちしていた京都の町や民衆を盛り上げるために、大いに尽力した人物でもあるのです。

そんな彼がある時期を過ごした邸宅が、「岩倉具視幽棲旧宅」として、京都市の北部に位置する岩倉に残っています。

文政8年(1825年)、京都の公家・堀河康親(やすちか)の次男として生まれ、13歳で岩倉具慶(ともやす)の養嗣子になった具視は、安政元年(1854)、孝明天皇の侍従となります。
朝廷内において発言力を増す中、公武合体派として、孝明天皇の権威を復興するため、天皇の妹・和宮(かずのみや)と徳川家茂の婚姻政策を成功させました。

しかし、このことが尊皇攘夷派から佐幕派とみなされ、命を狙われるようになり、文久2年(1862年)に孝明天皇の配慮で蟄居(ちっきょ/謹慎すること・家の中で引きこもること)を命じられました。

この旧宅に具視が暮らしたのは、元治元年から慶応3年(1867年)11月までの約3年間。
その間もなんとか復帰できないかと政府に対して意見書を書き続けました。
また、彼のもとには当時、中岡慎太郎や坂本龍馬らが訪れ、特に薩摩藩と親密になり、大久保利通との接触を深めました。
具視は幽棲中も、討幕派の志士たちと交流を続け、日本の将来のためにある計画を練っていたのです。

そして慶応3年(1867年)には洛中に戻ることが許され、12月9日、ついに王政復古の大号令を成し遂げました。
これからは朝廷が新政府を作り、明治という新しい日本を開くことを決意したのです。

新政府において、参与、議定、大納言、右大臣などの要職に就任した具視は、明治4年(1871年)には特命全権大使として「岩倉使節団」を伴い、欧米各国を視察。
公家出身でありながらも、新政府の中核として活躍しました。

植治が手掛けたお庭や立派な松が見れるんやて

元治元年(1864年)、具視は大工藤吉の居宅(現在の附属屋)を購入し、主屋と繋屋(つなぎや)を増築して住居としています。
越してきた当初は、「掃除をしても一向にきれいにならなくて涙が流れる」と嘆くほどのボロ家だったそう。

後に隣接地にあった現在の旧宅に移り、この建物は「鄰雲軒(りんうんけん)」と名付けられ、近代和風建築の初期の特徴を示す貴重な建造物として、昭和7年(1932年)には国の史跡に指定されました。

茅葺きの主屋の中に入ると、桜・紅葉・群雀(むらすずめ)など伝統的意匠が施されたしつらえが見られ、やはり公家らしい上品さが感じられます。

部屋の四隅をよく見ると、丸い金具の輪が付いているのが分かります。
これは蚊帳(かや)を吊るす輪っかで、ここで具視が寝ていたこと、そして隣室にも同じ輪っかがあることから、会合に来ていた来客が宿泊していたことが想像できます。

そして、大正ガラスの障子は、昭和3年に建物を補修した際に、具視の孫で、皇室に嫁いでいた東伏見宮周子(ひがしふしみのみや かねこ)によって寄付されたもの。
大宮御所で使われていた、3枚の戸から成る障子で、下の部分には竹とかきつばた、その裏側には桜と青紅葉が描かれています。

また、揺らぎを作り出すガラス越しに眺めるお庭の風景はなんとも趣があり、額縁庭園として絶好の撮影スポットとなっています。
紅葉やあじさい、ツバキなど季節ごとに草木や花が彩るこのお庭は、平安神宮の神苑などを手掛けた七代目小川治兵衛(植治)によるもので、その特徴は「不作為の作意」といって、自然に崩れたように計算された石垣などから見てとれます。

また、縁側に座ると、眼前に迫ってくる立派な松は、具視が植えたと伝わる松で、その松を眺めているかのように、お庭の一角には具視やその家族の遺髪を埋葬した遺髪塚もあります。

実は、具視は幼少期に里子としてこの岩倉地域で過ごしたことがあり、また彼の次男・具定(ともさだ)、三男・具経(ともつね)を里子に出した地でもあります。
具視は維新後、天皇とともに東京に住まいを移していますが、京都に戻ると岩倉村の人たちと宴会をもって旧交を温めていたそうです。

岩倉村で生き延び、維新への夢を育み、やがて明治維新を迎えた具視は、地元の人に助けられたという意識もあり、この地は大変思いれも深い場所だったのです。

日本史のお勉強や地域学習に役立てておくれやす

敷地の東側にある「対岳(たいがく)文庫」は、昭和3年(1928年)に具視の遺品類などを収蔵するために建てられたもので、平成19年(2007年)に国の登録有形文化財に指定されました。
鉄筋コンクリート平屋建ての洋風の建物で、とても優しい風合いが感じられます。

設計は、京都市役所や京都府立図書館などを手掛けた、昭和初期を代表する建築家・武田五一によるもの。
対岳文庫の「対岳」とは具視が和歌や漢詩を詠むときに使っていた雅号(ペンネーム)で、「岳(比叡山)の向かい側(対)に住んでいる」という意味が込められています。

ここには、生涯や功績に関する資料をはじめ、具視が描いた掛け軸、そして政治的な面とは異なる角度から見た岩倉家に関する資料もあります。
さらに、対岳文庫内には「岩倉文庫」として幕末・維新の歴史やこの周辺の歴史に関する書籍やガイドブック、子ども向けの分かりやすい歴史のマンガ本なども置かれているので、観光や地域学習に役立てていただけます。
週末にはボランティアによる無料ガイドが受けられるほか、今後も講演会や史跡巡り、ワークショップなども予定しているので、その日に合わせて参加してみるのもいいでしょう。

また、4月27日(金)~5月6日(月)のゴールデンウィーク期間中は、「平成30年度 春期京都非公開文化財特別公開」として、具視が活躍した場面を描いた絵巻物が対岳文庫にて特別展示されます。
ちょうど放送中のNHK大河ドラマ「西郷どん」にも、具視が今後登場しますので、是非この機会に合わせてチェックしてみてはいかがでしょう。

さて、建物やお庭を一回りしたら、入り口横の建物でゆっくりと休憩をしていただけます。
寒い時期は中の和室で、そしてこれからの気候のいい時期は外の縁台で、持ち込みのお弁当などを飲食するスペースとしてご利用いただけます。

また、4月からは新たに古民家喫茶としての営業も開始しています。
近くには、「床もみじ」「床みどり」で有名な実相院や、具視がしばしば参拝したという石座(いわくら)神社があります。
是非、こちらも合わせて散策をお楽しみください。

取材協力 : 岩倉具視幽棲旧宅
〒606-0017 京都市左京区岩倉上蔵町100
電話番号 : 075-781-7984
FAX番号 : 075-781-7984

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